アジャイルリーダーシップの実践 - 権力ではなく影響力でアジャイルな組織をつくるために【対談】

アジャイルリーダーシップメインカット

「アジャイルリーダーシップは、これからのリーダーシップです」
変化の速度が速まり、また、複雑化した現在のビジネス環境に適応し、価値を創出し続ける組織であるためには、旧来的ではない、新たなリーダーシップが必要になる。

こう説く書籍『アジャイルリーダーシップ』が2022年秋に刊行されました。著者であり高名なアジャイルコーチであるZuzana Šochová(ズザナ・ショコバ / @zuzuzkaさんは、自身の経験と多くの情報を融合し、変化に適応するアジャイル組織を形作るうえで重要な要素である、アジャイルリーダーシップを具体化し、それを体現するために必要なコンピテンシー(行動特性)やエクササイズを同書にまとめました。

書籍で語られる、アジャイルリーダーシップの価値はどこにあるのか、組織内で浸透させるための課題は何か、いかにして現場で発露するか。こうした「アジャイルリーダーシップの実践」を、同書の翻訳チームメンバーであるユーザベース社のエンジニア野口光太郎さんと岩見恭孝さん、そして会社組織のアジャイル化に取り組んできたChatwork社のエンジニアリングマネージャである”だいくしー”こと粕谷大輔さんに語り合ってもらいました。それぞれの現場で日々、開発と開発組織づくりに臨む3名が語るアジャイルリーダーシップの実像とは?

アジャイルリーダーシップ対談参加者 対談参加者はユーザベース社でBtoB SaaSの企画、開発設計、運用を担当する野口光太郎さん(左)。同じくユーザベース社で社内ユーザーに向けた機能開発を担う岩見恭孝さん(中央)。そして、Chatwork社でエンジニアリングマネージャーを務める粕谷大輔さん(右)。

アジャイルリーダーシップって一体何だ?権力ではなく、影響力で人を導く

粕谷 今日はお二人とお会いできてうれしいです。お会いしたら「よくぞ『アジャイルリーダーシップ』を翻訳してくださった」とぜひ伝えたいと思っていたんです。もともと著者のズージー(Zuzana Šochováさんの愛称)からは強い影響を受けていて、ズージーの前著作『SCRUMMASTER THE BOOK』も読みましたし、アドバンスド認定スクラムマスター研修で彼女からトレーニングを受けたりもしていたんですね。それに、ズージーが講師を務める「認定アジャイルリーダーシップ研修」も受講したんです。彼女の最新著書が日本語で読めるようになったのはとてもありがたいです。

野口 ありがとうございます! 僕も『SCRUMMASTER THE BOOK』は画期的な本だと思っていて、その著者が2冊目の本を出したと聞いて「ぜひ日本の皆さんにも届けないと!」と思って『アジャイルリーダーシップ』の翻訳に取り組みました。だいくしーさんからそう言っていただけて、翻訳した甲斐があったと思いました。

──皆さんから期待を集める「アジャイルリーダーシップ」ですが、まずこの本における「アジャイルリーダーシップ」について紹介していただけますか。

野口 アジャイルリーダーシップというのは、もともとソフトウェア開発の文脈から出てきた言葉で、文字通り「アジャイルに導くリーダーシップ」のことです。まずアジャイルとは、この本の中では変化に柔軟に対応できる「適応性」がある状態のことを指しています。アジャイルはソフトウェア開発以外のビジネスにも役立つ概念で、それだけに、この本には開発者”だけ”に有用な情報は基本的には出てこず、もう一段抽象的な概念が書かれているので、ビジネスサイドの人も役立てられます。

岩見 書籍では現代的なビジネス環境を「VUCAの世界」と表現しています。VUCAとは……

  • 変動性(Volatility)
  • 不確実性(Uncertainty)
  • 複雑性(Complexity)
  • 曖昧性(Ambiguity)

を意味しています。つまり、予測不可能な現在のビジネス環境、いわゆる「先が見えない時代」にビジネスを継続的に適応させていくために、アジャイルリーダーシップが解決策になると書かれているんです。技術や環境は大きく変わっても、人と人とがチームを作って問題を解決することは変わりません。

野口 書籍でいうアジャイルな状態、つまり適応性の高い状態になるために重要なのは、組織の構造とマインドセットです。従来型の組織では自分の与えられた権限内で仕事をしていきますが、アジャイルな組織ではチームで仕事をする中で自然とリーダーシップが生まれ、各チームが有機的に協力しながらネットワーク的、コミュニティ的に仕事をしていきます。こうした自律的な状態になるためには、実現したい価値を仲間と共有して進むとか、社会に対してどうコミットすべきか、といった大きな視点に基づくマインドセットが必要です。

アジャイルリーダーシップは、組織やチームをそのような状態に導く資質のことを示していますが、重要なのは「リーダーシップとは権力ではなく影響力である」ということです。組織構造の中で存在する権力をもとに「こうしなさい」と人を動かすのではなく、自分の行動と説得力によって影響力を持ち周囲の人を導くことがアジャイルリーダーシップだと、この本は示しています。


【Memo】「従来型の組織」「アジャイルな組織」ってなに?
書籍内では、組織構造のパラダイムを以下のように1.0〜3.0までの3つに分類、整理しています。

  • 組織1.0(従来型):従来から存在するピラミッド型の階層構造を持つ組織。各階層に上司 / 部下という関係性とそれに基づく権力が存在し、組織を構成する各個人が明確に定義された役割と責任を持つ。
  • 組織2.0(知識型):1990年代に発生した知識(各個人の専門性)を重視した組織。専門部署のメンバーとそのマネージャー、という関係性は存在するが、新たな変化や問題に直面した際、それに対応するためのプロセスや組織編成にはある程度の柔軟性(新規事業のために新たにプログラマやマーケターなど専門人員を集め新規チームを立ち上げる、など)を持つ。
  • 組織3.0(アジャイル):組織構造に定義はなく、柔軟性と高い適応力を備えた新たな組織のパラダイム。従来の管理職による指示ではなく、各個人がリーダーシップを発揮し自律的に動きながらも、他者とコラボレーションしながら価値創造を目指す。

粕谷 自分の影響力を広げていくことによって周囲を変えていくことがアジャイルリーダーシップだというのは、僕も共感します。現職のChatworkに転職して会社組織全体をアジャイルにしていく役職に就き、初めて横断的に組織を見るようになったんです。そのときに参考にしたのが『SCRUMMASTER THE BOOK』でした。書籍の中ではスクラムマスターの成熟度をレベルで表してるのですが、高いレベルに到達するのに必要なものがアジャイルリーダーシップだったんです。

僕がアジャイルを追求する理由は「関係する人たちが生き生きと仕事できるよう整えていくこと」にあります。こうした世界を実現するためには、自分の影響力をチームの外側、開発組織の外側、さらに会社の外側へと広げていくことが必要です。「影響力」で人の行動を喚起するというアジャイルリーダーシップの考え方は参考になりますし、自分自身アジャイルリーダーでありたいと考えています。

組織がモダンでなくとも、アジャイルリーダーシップは追求できる

野口 『アジャイルリーダーシップ』には自律的なネットワークとして組織されたチームがアジャイルな組織の姿だ、という記述があります。

現代のアジャイル組織は、人とその関係性によって成り立っています。協働的で、創造的で、適応性のあるネットワークです。自立的なシステムが互いにつながることで成り立って、影響し合いながらも一貫性を保っています。

『アジャイルリーダーシップ』P35より

ただ、アジャイルリーダーシップを発揮できるかどうかは、組織構造だけの問題ではないのではないかとも思っています。

岩見 僕たちの所属する開発組織には明確なリーダーは存在せず、上司も部下もいないフラットな組織構造になっています。一方で、ビジネス領域ではDivisionの下にTeamがあり、その下にUnitがある、いわゆる階層構造になっています。ただ、それでもビジネス領域内でのDivision、Team、Unitといった区分を越えたコラボレーションはもちろん、開発組織とビジネス組織も自由にコラボレーションして仕事を進めています。組織図だけを見れば従来的なピラミッド構造でも、各個人がアジャイルリーダーシップを発揮して働くことはできているのではないかと感じています。

粕谷 僕もそう思います。Chatworkはいまちょうど組織改編の過渡期にあって、フラットなスクラムチームもあれば、従来型の開発部門もあるという状態です。少しずつアジャイル型への移行を進めていて、Scrum@Scale*1というフレームワークを元に開発組織を整えようとしています。

このScrum@Scaleは、階層構造が存在する従来型組織の中であっても機能すると考えています。積極的にコミュニケーションを取る必要があるメンバー同士をうまく束ねてコミュニケーションルートを作っていき、アジャイルに動ける組織にしようと取り組んでいるんです。

野口 複数のスクラムチーム間のコミュニケーションパスはちゃんとデザインすべきだと思いますか?

──アジャイルリーダーシップや「アジャイルな組織」の原義を参照すれば、コミュニケーションはデザインせずとも、コラボレーションのなかで自発的に生まれる、ともいえそうですね。

粕谷 自分は「システム思考(向き合う課題や問題を単一のものではなく、さまざまな要素が絡む「システム」として捉え、俯瞰的な視点を持ち解決を図る思考法)」を参考に考えることが多いのですが、コミュニケーションの構造はある程度、意識的に整える必要があると思っています。構造が整っていないところで各々が最適だと思う行動をした結果、かえってコストが大きくなってしまうこともあります。たとえば、Aさんに新しいシステムの要件を伝えなければいけないと、BさんとCさんが”よかれと思って”ミーティングをセットしたとします。結果、伝える内容は同じなのに、Aさん↔Bさん、Aさん↔Cさんという2つのミーティングが重複してしまったら、それは非効率的です。

ある程度コミュニケーションをデザインしないと、こうした共有地の悲劇(誰もが自由にアクセスできる共有資源は乱獲の後、枯渇してしまうという経済学における法則)にも似たことが起きてしまいます。

その一方で、構造を作ると構造に縛られてしまう人やセクショナリズムが生じる懸念もあります。それを防ぐには、みんなが自発的なリーダーシップ、つまりアジャイルリーダーシップを持つことが必要です。すると、その構造の中でさらに構造を改善する工夫が有機的にできるようになります。

野口 チームや組織にアジャイルマインドを浸透させるために行っていることはありますか?

粕谷 僕一人がアジャイルマインドと言い続けても浸透しないので、組織の要所に複数人のアジャイルコーチを置いてメンバーとの関係性をうまく作り、コミュニケーションの中でマインドを浸透させていきたいと思っています。関係性を意図して作っていくわけですね。

野口 ユーザベースの場合は、特定のコーチではなく、アジャイルマインドを持つ人がチーム内のメンバーに対してアジャイルに関する考えかたを伝えていき、そこに共感した人がさらに周囲に伝えていくことでアジャイルマインドを浸透させています。

岩見 僕たちの組織では、技術的ナレッジの共有や向上、またコミュニケーションの活性化やサイロ化の防止を図るためにチームシャッフルを頻繁に行っていますが、これはアジャイルなマインドセットの共有にも効果があると思っています。メンバーはそれぞれにアジャイルを追求していますが、シャッフルによって異なるメンバーとコミュニケーションすることで、よりアジャイルへの理解や共感が高まりますし、新たな知見も得られ視野も広がります。

ユーザベースのチームシャッフルの図版

粕谷 自発性だけに任せるのではなく、チームシャッフルという仕組みでマインドセット浸透を加速させているのならば、それも立派な組織的な整備と言えると思います。

野口 なるほど、そういう視点もありますね。「アジャイルなマインドセットの浸透」という目的は同じでも、Chatwork社と弊社でアプローチが全く違うのは面白いですね。

権力で「やらせる」のか、影響力で「行動を喚起」するのか

野口 だいくしーさんは会社組織全体をアジャイルにする仕事を任されているとのことですが、一方でメンバーのマネジメントも行っていると聞いています。そのバランスはどのように取っているのでしょうか。

──マネジメントにはなんらかの「権力」が発生するように思います。一方でアジャイルリーダーシップでは権力ではなく、影響力で周囲の人たちの行動を喚起する、という考え方がありますね。

リーダーには役職による権威はありません。リーダーは、自身の行動や振る舞い、周りの人たちを助けることによって影響力を得ます。そして、その力は周囲からの尊敬によってさらに大きくなっていくのです。

『アジャイルリーダーシップ』P21より

粕谷 僕はアジャイルリーダーシップを発揮する立場でありたいし、そうした存在であることを期待されています。一方で、エンジニアリングマネージャーとして、社内で開発組織をマネージしていて、最近では一部メンバーの評価や査定も行うピープルマネージメントも担っています。野口さんが「マネジメントとアジャイルリーダーシップのバランスは?」と疑問を持つのも当然で、両立は難しいです。人のマネジメントをする立場には権力が付随するので、ただのアドバイスでも、それが命令や指示として聞こえてしまう場合があります。

──なにか具体的な解決策をとっているのですか?

粕谷大輔(だいくしー)さんによるアジャイルリーダーシップワンポイント

粕谷 自分が査定するメンバーには別のアジャイルコーチをつける、自分がアジャイルコーチングを行うのは自分が査定しないメンバーに限る、といったアプローチをとっています。自分の持つ「権力」と「影響力」の影響範囲をそれぞれ独立させているんです。

Chatwork社のエンジニアリングマネージャーの権力と影響力の図版

岩見 その工夫は面白いですね。僕たちの開発組織は上司 / 部下といった関係性がないフラットな組織構造になっていて、本来的には権力や権威は存在しません。しかし、それでも「暗黙の権威」が生じると感じています。たとえば、僕は社内での経験が長く、ビジネスや開発に関するコンテクストも多く把握しているので、チーム内でディスカッションしていても、僕の発言が通りやすくなってしまうことがあります。こうした状態はフェアではない、と悩んでいて、社歴にかかわらずメンバーの意見を先に拾い上げて、自分の影響力が出すぎないように気を付けていますが、解決策を模索している最中です。

野口 そこは悩みどころですよね。ただ、僕は知識を多く持つ人はそれを使うべきだと思っています。一方でその結果、他者が異なる知見を出せなくなってしまうのは懸念すべき状況です。意識的に質問を投げかけたりとか、自分が話しすぎているときはいったん止まったり、といったことは意識していますが、こうしたやり方が適切かどうかは、まだ僕も答えを持っていません。

粕谷 現場エンジニアの知見の多寡にグラデーションがあるのは、当然であって悪ではないと思います。ただレビューで立場の強いエンジニアの意見ばかりが通るとか、意見を言いづらい人が出てくるのは避けるべきです。こうしたギャップを観察しながら上手にバランスをとるのはスクラムマスターの役割だと思います。そうすると、今度スクラムマスターの立場が強くなりすぎることもあるので、その場合はスクラムマスターの役割をローテーションする必要が出てきますね。

岩見 僕らのチームはスクラムではなくてXPを採用していてスクラムマスターというロールがないので、みんなで担い合っているのですが、やはり権威と影響力のバランスは組織やチームごとに模索が必要ですね。

形なきアジャイルリーダーシップをどう伝え、どう共有するのか

──アジャイルリーダーシップという考え方は、一意の共通したものとしてチームメイトに伝わり、共有できるものなのでしょうか。

粕谷 アジャイルリーダーシップは厳密な定義があるものではなくて、人によって解釈が変わったりもします。僕らがアジャイルに取り組む一番の理由は、最終的にはよい商品を作って社会に価値を届けることです。その目的が達成できれば手段に固執しないことがアジャイルだと思います。ですから、「よい商品を作って社会に価値を届ける」という認識がぶれていなければ、個別のプロセスや考え方のちょっとした差異は問題にはならないのではないかと思っています。

野口 そこはぜひだいくしーさんに聞いてみたいところですが、ミッションにさえ向かっていればよいのではなくて、アジャイルという手段がぶれるのはよくないのではないかとも思うんですね。

僕たちの組織では、「ぶれがないようにしよう」という意識を強く持っています。ユーザベースでは現CTOが旗を振り、アジャイルを広めましたが、今もメンバーに対して「アジャイルの本質は何か」ということを何度も伝え続けています。つまり「アジャイルの本質を追究する」という僕たちが大事にしている考え方の濃度を保つことを重視していて、それが今でも社内での意識の共通化に役立っていると感じています。

ユーザベース野口さんのアジャイルリーダーシップワンポイント

粕谷 「濃度」という表現は面白いですね。僕の場合はそこまで濃度を均一に整えることに神経質にはなっていませんが、複数人のアジャイルコーチの間で意識の同期を図るために、週に1回「アジャイルコーチ会」を設けています。また社内のスクラムマスター同士の横のつながりを作る場「スクラムマスターギルド」も設定してして、要所要所で目線を揃える工夫はしています。

Chatwork社のアジャイルなマインドセット同期の図版

また、既存のガイドであるアジャイルマニフェストやスクラムガイドなどは物差しとして利用できると思います。たとえば、スクラムの基盤である「透明性」がないとか、「検査」や「適応」が守られていないといったことがあれば、それはスクラムガイドと反しますし、自分たちがやりたいこととも違うので、是正すべきだ、という共通認識が持てる。既存のガイドがチームや組織の共通認識を醸成するのに役立つんです。

アジャイルリーダーシップを体現するコンピテンシー。大事なのはなんだ?

野口 書籍では、アジャイルリーダーシップを体現するうえで重要な、4つのコアコンピテンシー(行動特性)と、4つの補助的なコンピテンシーを以下のように挙げています。

  • コアコンピテンシー
    • ビジョンを描くこと
    • モチベーションを高めること
    • フィードバックを得ること
    • 変化を起こすこと
  • 補助的コンピテンシー
    • 意思決定
    • コラボレーション
    • ファシリテーション
    • コーチング

─書籍ではこれらを高め続けるのがアジャイルリーダーシップを追求する道と表現していますね。

優れたアジャイルリーダーは生まれながらにしてこれらのコンピテンシーを身につけているわけではありません。常にこれらのコンピテンシーを高め続けているのです。

『アジャイルリーダーシップ』P89より

野口 はい。これらコンピテンシーの中で、だいくしーさんが特に重視しているものはありますか?

粕谷 僕はファシリテーションを意識していますね。関係性をつなげ、整える。また、情報の風通しを良くすることで、新しい価値が生まれる、といったことを期待してファシリテートし、そのための場づくりを意識的に行っています。たとえば、スプリントレビューに参加してもらうステークホルダーを選ぶ際にも、マーケティング担当者やカスタマーサポート担当者などを呼ぶことで、良質なフィードバックが得られるのではないか、そんな効果を考えたうえで会議体を作るなどしています。

野口 お話をうかがっていると、だいくしーさんはさまざまな実践に取り組んでいるように見えますが、苦しいことはないですか?

粕谷 もちろんあります(笑)。関係者を引き合わせた結果、うまくいかなかったらどうしようということは毎回考えますね。 そして、当然ですが毎回必ずうまくいくとは限りません。僕がセッティングしたから参加しようと思ってくれたのに、うまくいかないことが続けば、関係者から僕への信頼は下がってしまいます。こうした「信頼貯金」の上下には苦労します。なんらかのファシリテーションがうまくいかなくて、「あ、いま信頼貯金が下がったな」と感じることもあります。

──「信頼貯金」は自身の影響力の大きな原資といえそうですね。信頼の置ける人物の行動、言葉であれば、素直に受け入れられるように思いますし、進んで「影響を受けたい」と感じることも自然だと思います。

粕谷 ですから、信頼貯金を毎回考えながら場づくりをするのはとても神経を使いますし、できるならやりたくないと心の中で思うこともあります(笑)。

良い影響を皆に与えられるよう、信頼を積み重ねられるよう心がけていますが、そのために一番いい方法は約束を守るということですね。1 on 1をセッティングしたら絶対にリスケしないとか、毎朝朝会にはちゃんと時間通りに出るとか、小さい約束を守るということが大事です。お二人が重視しているコンピテンシーもぜひ教えてください。

岩見 僕たちの場合、一番実践機会が多いのは「フィードバック」です。開発は原則ペアプログラミングで進めているのですが、その中では技術的なフィードバックだけでなく、アジャイルに関するマインドセットのフィードバックも行っています。ペアプログラミングが日常化しているがゆえに、遠慮なく率直に言い合える雰囲気があるので、オープンかつ高速にフィードバックを行えていると思います。

ユーザベース岩見さんのアジャイルリーダーシップワンポイント

野口 一方で、「まだまだ足りない」と感じるコンピテンシーは「ビジョンを描くこと」ですね。チームでビジョンを描いて共有できれば、もっとチームのパワーを引き出せるのではないかと思います。たとえば、インセプションデッキもビジョニングにおける強力なツールの一つであるはずです。僕たちもインセプションデッキを導入しているものの、活用しきれていないのではないかと感じています。

アジャイルリーダーシップを定着させるには

──さて、書籍では「アジャイルリーダーシップは役職ではなく、心のありよう」と幾度となく強調されています。では、「心のありよう」という、明確な形のないアジャイルリーダーシップをチームや組織に定着させるために、必要なことは何でしょうか。

粕谷 自分でできているかどうかは棚に置いていうと、繰り返し伝えることが大事だと思いますね。Regional Scrum Gathering℠ Tokyo 2023の岩瀬義昌(@iwashi86)さんによるクロージングキーノートで学んだ「√(ルート)の法則」では、「100人の人に届けるためには同じことを10回言わなければいけない。1000人の人に届けるためには100回言わなければいけない」とありますが、まさにその通りだと思います。

岩瀬さんの発表「なぜ変化を起こすのが難しいのか? - 数年以上に渡って難しさに向き合い考え取り組んできたこと」はブログ『RSGT 2023のクロージングキーノートで登壇してきた』にも詳しい

加えて、みんなで繰り返し話し合うことも大事です。スクラムチームであれば振り返りやデイリースクラムとかの場で、それ以外でも別途話し合う場なども設けて、繰り返し伝え、コミュニケーションしながらアジャイルやアジャイルリーダーシップに関する共通認識を育んでいくしかないと思っています。

岩見 それには忍耐が必要ですよね。書籍でも「忍耐」はアジャイルリーダーに必要なメタスキルの1つとして挙げられています。自分が行動し続けることだけでなく、チームが理想的な状態に向かっていくのには時間がかかる、という観点でも忍耐が必要ですね。

アジャイルリーダーは、組織がアジャイルへの道のりを歩むためのガイドです。メタスキルの観点で言うと、忍耐が必要です。このような変化には時間がかかるからです。

『アジャイルリーダーシップ』P320より


【Memo】メタスキルってなに?
書籍内では、上述のコンピテンシーに加え、アジャイルリーダーシップを捉える上で必要な、より抽象的な個人スキルとして「メタスキル」を提示しています。個人が関わる領域を「私」「私たち」「世界」の3つに分類し、それぞれの領域の中に、以下のような個別要素としてメタスキルを整理しています。

  • 「私」の領域:個人の内側に生じる内発的領域
    • メタスキル:好奇心 / 遊び心 / 尊敬 / 忍耐
  • 「私たち」の領域:自分自身、そしてともに仕事(コラボレーション)する人たちに影響する領域
    • メタスキル:コラボレーション / 信頼 / オープンさ / 多様性
  • 「世界」の領域:「私たち」よりもさらに大きな、「自分自身がどのような姿勢で世界と関わるか」を示す領域
    • メタスキル:コミットメント / 集中 / 真実さ / 勇気

粕谷 僕は本来、忍耐はあまり得意ではなくて放り出してしまうタイプです。プログラマーをやっていた頃はコードを書いてテストすればすぐに結果が得られるので、乱暴に言えば「忍耐」の重要性は高くなく楽だったなと感じることがあります。しかし、組織を作るには時間がかかるし、ときに結果が得られないこともあります。なかなか結果が出なくてもあきらめずに「忍耐」というアジャイルリーダーシップを発揮していくには、自分の心身が健康でないといけません。僕が楽しそうに仕事をしていないとみんな話を聞いてくれないですよね。ですから自分自身が元気でいることはすごく気にします。

岩見 たしかにプロジェクトがタフな場合でもポジティブな人がいると勇気がでますね。だいくしーさんがアジャイルの先に見つめる「皆が生き生きと働く現場」を生み出すことにつながってくると思います。僕の場合は元気がないときは周りにそのことを宣言してしまうことが多いです。他のチームメンバーにも自分のコンディションを率直に伝えてほしいし、それ以外にも、ささいなことでもオープンにしていきたいと思っています。

アジャイルを追求するために。アジャイルリーダーシップの効果ってなんだ?

──皆さん、それぞれがそれぞれの形でアジャイルリーダーシップの実践に努めています。それによって得られる効果は何だと思いますか。

野口 その質問に答えるには、自分がなぜ「アジャイルがいい」と思うのか、その理由をお伝えするのがいいですね。僕の場合、チーム全員の力が適切に発揮されている状態を目指して、アジャイルを追求していると思っています。

粕谷 僕の場合、かつて働いていた現場での経験がアジャイルを追求する動機になっています。かつての現場では、納期間際になると残業や休日出勤が続いて、現場がどんどん疲弊していくんです。そもそもきちんと計画して開発に臨んでいるはずなのに、なぜこんな厳しい状況になってしまうんだ、と疑問を感じていたんです。こうしたつらさを解消し、チームが生き生きと働ける現場を作りたい。そう考えてアジャイルを追求するようになりました。

ですから、メンバーのみんなが楽しく健康的に働ける職場を実現できれば、それこそが僕がアジャイルリーダーシップを追求する効果だと思います。

岩見 僕の場合もお二人と共通します。チームメンバーが生き生きと健康に働けていて、自分たちの個性を発揮しながら価値を生み出すことが大事だと思います。ただ、その前提として、チームの成果がきちんと出せていることは必須ですね。

粕谷 成果は大切だと僕も思います。自分としては「Howの部分」を整えるのは上手にできるようになってきたと思います。次は構築したHowをもとに、どのような価値を出すかというところにもう少しフォーカスを移したいと思っています。今、プロダクトオーナーやプロダクトの方向性での課題が見えてきたところなので、ビジネスアジリティも含めてよいチーム作りができるコーチになりたいと思っています。

──それぞれが、過去の経験をもとにアジャイルを追求するようになったのですね。では、過去直面した「仕事がうまくいっていない」状況において、当時の自分がアジャイルリーダーシップを発揮すれば、なにか改善ができたと思いますか?

岩見 僕は過去に、「何のためにこの開発をしているのか」が見えなくなってしまった経験があります。つまり、目的を見失って仕事に追われているだけの状態だったんです。しかし、当時の自分がアジャイルリーダーシップのコアコンピテンシーでいうところの「ビジョンを描く」を体現できていれば、自分と周囲の人たちが「目の前の仕事や問題になぜ向き合うべきなのか」が明示的になり、もっとポジティブに仕事ができていたかもしれません。

野口 ビジョンは僕も大前提として必要だと思います。僕は過去、「うまくいかない」と感じたときに環境を変える=転職するという選択をしましたが、もし今の会社でつまずくようなことがあったら、アジャイルリーダーシップを意識し、改善する方法を考えると思います。どうすれば改善できるかも大事ですが、同じくらい、そもそも改善したいか、そこに情熱を持てるかも大事です。

粕谷 アジャイルリーダーシップがあれば万事問題なし、というわけではありません。組織としてうまくいくためには構造も整える必要がありますが、それにはトップダウンも不可欠です。そこで自ら上層部を説得しにいくというアプローチも考えられますが、それには多大なコストが必要になりますよね。そこまでする価値があるかどうかということだと思います。

強みのあるコンピテンシーを持つ

──アジャイルリーダーにもいろいろなタイプがあると思いますが、皆さんのイメージするアジャイルリーダーについて教えていただけますか?

野口 夢と情熱を持ってアジャイルを追求し、僕たちに良い影響を与えている人、という意味では、弊社CTOはアジャイルリーダーと言えると思います。もっとも、CTOはメタスキルにも含まれる「忍耐」には懐疑的です。「信念をもって絶対にいいと確信できる対象を追求しているのであれば、時間がかかるとしてもそこに忍耐は必要ないはず」と言うんです。僕はこう言い切れる境地には達していません(笑)。

粕谷 僕がイメージするのは川口恭伸(@kawaguti / アギレルゴコンサルティング社所属のアジャイルコーチ)さんですね。場づくりやコラボレーション、ファシリテーションに長けていらっしゃるように感じていて、自分の得意分野の先にいるロールモデルだと思っています。

岩見 僕は社外でロールモデルとなるような人を見つけられておらず、野口さんの言う弊社CTO以外の人がパッと思い浮かびません。ただ、ロールモデルになるような人を探すには、コンピテンシーの特定の部分に注目すると見つけやすいのかもしれませんね。本を訳していたときも思ったのですが、アジャイルリーダーシップ全体を体現している人をイメージするのは難しい。

──なるほど。確かに皆さんが挙げられるロールモデルの方も、「すべてのコンピテンシーを有する」ではなく、一部のコンピテンシーに強みを持つ方、と受け取れますね。

粕谷 ズージーが講師を務めるアジャイルリーダーシップ研修でも、自分が得意だと認識しているコンピテンシーと、苦手だと思っているコンピテンシーを選んでディスカッションするというワークショップがありました。あるコンピテンシーが得意だと / 苦手だと組織にどのような影響を与えるか、といった観点で議論し、考察するんです。岩見さんが言うように、特定のコンピテンシーやスキルに分けるという考え方は、アジャイルリーダーシップを理解し、追求する上で有効だと思います。

岩見 実際、僕らのチームでもアジャイルリーダーシップを実践しているといっても、得意な部分は人によって違っています。コンピテンシーに沿ってアジャイルリーダーシップを捉えなおすというのは、マインドセットをトレーニングする上でも手がかりになると思いました。

野口 そこはすごく大事ですね。アジャイルリーダーシップは「一人がすべてを担う」というわけではなく、コンピテンシーごとに強い人が集まっていればいい。誰がどの部分に強いかをわかっていることが大事なのだと、今気づきました。

粕谷 得意・不得意を可視化すると自分たちに足りていないコンピテンシーがわかり、どう補うか考えられるようになりますね。

アジャイルの本質を見つめ直すガイドとしてのリーダーシップ

──皆さんのお話から、アジャイルリーダーシップとはアジャイルを追求する上で、心のガイドラインとしての機能が期待できると感じました。

粕谷 近年、ソフトウェア業界ではアジャイルという考え方が浸透してきましたが、その一方で、「形だけのスクラム」のように、形骸化したアジャイルになってしまうリスクも感じています。だからこそ、本質的なアジャイルにアプローチしていくために、もうひとつ高い視座から俯瞰的に「アジャイルな“心のありよう”」を伝えるアジャイルリーダーシップが大事になってきていると思っています。

野口 すでにアジャイルを実践している人はたくさんいらっしゃると思いますが、「果たして自分の追求しているアジャイルは本質を捉えているか?」と疑問を持つことがあるかもしれません。そんなときは検証のためのガイドとして、この本を役立ててもらえたら嬉しいですね。

──書籍や他者の知見に照らして検証する、というのも大事なプロセスですね。今回の対談も、皆さんがそれぞれ取り組まれているアジャイルを検証する、と捉えられそうです。

岩見 今回の対談で、僕たちはだいくしーさんにはアジャイルリーダーシップの実践手法など、「具体」をお聞きしたいと思っていました。一方で、だいくしーさんは「アジャイルリーダーシップをどのように捉えているか」という、「抽象」に関心を持っておられると聞きました。このギャップについて興味深く思っています。

粕谷 なぜ僕が具体について聞かないかと言うと、アジャイルリーダーシップはもとより、アジャイルの実践はそれぞれの組織構造や、なにを作っているか、といったコンテクストに応じて、まるで違う形になるからです。だからこそ「お二人の考えるアジャイルリーダーシップってどんなもの?」を聞いて、自分の捉え方との共通点や差異を探ってみたかったんです。

野口 今日はお話している中で、多様なアジャイルリーダーシップのなかに共通する考え方を探れて、とてもよい機会になりました。どうもありがとうございました!

取材・構成:森嶋良子
編集:はてな編集部

*1:スクラムの簡素な構造を維持しつつ、複数のスクラムチームがフラクタル構造を取りながら拡張していくフレームワーク

粕谷大輔(かすや・だいすけ) @daiksy
Chatwork株式会社エンジニアリングマネージャー / 認定スクラムマスター。SIer、ソーシャルゲーム開発でのエンジニア業務、サーバー監視ツール開発のディレクターを経て、2021年より現職。開発組織の整備、スクラムコーチングはもちろん、会社全体のアジャイル化を推進している。数多くの登壇、執筆を通じて、アジャイルやスクラムの発信活動に取り組む。
ブログ:だいくしー(@daiksy)のはてなブログ
野口光太郎(のぐち・こうたろう) @enk_enk
株式会社ユーザベース Product Division ソフトウェアエンジニア / 『アジャイルリーダーシップ』翻訳チームメンバー。SIer、パッケージソフト企業を経て2019年にユーザベースに入社。B2B SaaSの企画、開発設計、運用を行う。パッケージソフト企業在籍時に本格的にアジャイルに触れ、スクラムマスター、プロダクトオーナーを務める。
岩見恭孝(いわみ・やすたか) @i_whammy_
株式会社ユーザベース Product Division ソフトウェアエンジニア / 『アジャイルリーダーシップ』翻訳チームメンバー。パッケージソフト企業での開発業務を経て、2018年ユーザベースに入社。B2B SaaSの開発など複数のプロジェクトにおいて開発を担当し、各所でアジャイルの実践に努める。