ソフトウェア開発において、アジャイルという考え方はかなり浸透しています。多く出版物やWebコンテンツ、さまざまなコミュニティやセミナーが存在し、アジャイルの情報には触れやすい状況になってきました。一方で企業においてアジャイルを導入しようとする際に開発チームのどこを変えるべきか、組織固有のルールとどう折り合いを付けるかなどに頭を悩ませる方も多いでしょう。
『SCRUM BOOT CAMP THE BOOK』などの著作で知られ、アジャイルコーチとして企業の組織づくりを支援する永瀬美穂(@miholovesq)さんは、これまで複数の大学で授業におけるアジャイル導入も支援し、その成果を発表する「Agile PBL祭り」を主催してきました。永瀬さんによると、学生は前提知識もないところからソフトウェア開発を学ぶため、社会人エンジニアより自然とアジャイルに取り組める面もあるそうです。
大学はなぜ教育にアジャイルを取り入れ、どのように授業を進めるのか。学生はどのように取り組み、そこから社会人が学べることは何か。10年におよぶ永瀬さんの教育現場での実践をもとにお聞きしました。
- アジャイルは「学び方を学ぶ」教育に向いている
- PBLでカリキュラムを工夫してアジャイルを実践する
- 自分の課題を解決する身近なアプリを作る
- 「ちゃんとする」より前に作り始めて変更してまた作る
- 企業のアジャイル研修も大学の授業のようにできる
- アジャイルPBLの火種を絶やさないイベントを開催する
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アジャイルは「学び方を学ぶ」教育に向いている
── これまで産業技術大学院大学(Advanced Institute of Industrial Technology、AIIT)、琉球大学、筑波大学、東京工業大学などでアジャイルを教えられていますが、なぜ大学教育に関わるようになったのでしょう。
永瀬 きっかけとして、2012年に文部科学省が開始したenPiT(成長分野を支える情報技術人材の育成拠点の形成:education network for practical information technologies)というプロジェクトがあります。enPiTは、社会やビジネスの課題を解決できるIT人材の育成を目指しており、実践的な教育としてPBL(Project Based Learning)※が取り入れられました。
※PBL … アクティブラーニングの手法の1つ。人間は情報の伝達による学習よりも、自らの体験のなかで知識を構築していくことが効果的だ、という認知科学の発展による知見を取り入れる形で生まれた。課題解決型学習とも。
私は、ソフトウェアエンジニアとしてアジャイルを開発に導入できた経験をもとに、2013年にフリーランスのアジャイルコーチとして独立しました。ちょうどそのタイミングで、AIITの中鉢欣秀先生から声を掛けていただいたんです。AIITは社会人を対象とした専門職大学院でもともとPBLは必修なのですが、enPiTに取り組む際に「アジャイルでやろう」ということになったようです。
── 大学のIT教育でPBLを実践する動きがまずあったわけですね。PBLについて少し詳しく教えてください。
永瀬 PBLの特徴は、学ぶ人が能動的に学ぶ活動をデザインするところにあります。自分で課題を選び、その課題を解決するなかで自ら学んでいき、教員はそれをファシリテートします。学生がチームを作り、自分たちで課題を見つけて、自分たちで解決する。そのため学生が積極的になる、自律的になる、コミュニケーションスキルが上がるといった効果が期待されています。
── 自由度が高いグループワークという感じでしょうか。
永瀬 従来のグループワークでよくあるのは、教員が課題を与えて、その課題を学生が分担して解決するものですね。PBLでは、課題も自分で設定するところに大きな特徴があります。
もうひとつ大きな特徴が、学習していく中で必要な知識やスキルを、自分で見極めて学ぶところです。従来のグループワークでは、事前に学んだ知識や教わったスキルを使って課題に取り組みます。PBLでは、学習のマネジメント自体を学生自らが行う、つまり「学び方を学ぶ」ためのものだと言えます。
PBLでカリキュラムを工夫してアジャイルを実践する
── 具体的にアジャイルをどのような形でPBLに取り入れているのかを聞いていきたいのですが、まずアジャイルをどのくらいの期間をかけて教えるのでしょうか?
永瀬 年間のカリキュラムに組み込まれている講座もあれば、短期の集中授業もあります。AIITでは春や夏の集中授業と10月から12月にかけての学期で開発を行っていました。集中授業のみの場合も期間は4日間から2週間までさまざまですし、2コマの授業を行うだけということもありました。
教え方も、2コマなら座学で「アジャイルとは」「スクラムとは」を説明する教科書的な授業になりますが、そうでなければ実際に課題の設定から解決方法までを学生自身で考えて、実際に動くプロダクトを開発するところまで期間中にやりきります。
── 限られた授業数の中で、どういうカリキュラムで動くプロダクトを作るところまで進めるのでしょう。
永瀬 例えば筑波大学では、6日間の夏合宿を行っています。初日に「アジャイルとは」「スクラムとは」という話もひと通りしますが、カタカナ語ばかりで頭に残らないので簡単な説明に留めます。それよりプロダクトをチームで作ることの意義と、とにかく「動くものを作って見せてほしい」という話をとくとくとします。
参考▶ PBL基礎2020(夏合宿) - enPiT-BizSysD × 筑波大学
残りの時間はひたすら開発に取り組んで、実際に動くものを作ってもらいます。座学で話しても頭に残らないんですよね。開発する途中で、困りごとに遭遇したときに「初日に渡した資料の何ページに書いてあるよ」と説明して再発見してもらう感じです。そういうベースとなる教材は少しずつ調整して安定してきましたが、学生が学んでいるものはチームによって違いますから、典型的な授業の進め方というものはほとんどないですね。
特に集中授業においては、どのタイミングで何の話をするか、教員がチームを毎日見て考えながら調整しています。筑波大学では数十人の学生に対して、教員が3〜4名、さらに前年に受講済みの学生メンターが十数人いて、教える側もチームを組んでいます。私も含めて先生たちが学生に合わせていきます。
── なるほど。教える側もアジャイルで進める必要があるんですね。
自分の課題を解決する身近なアプリを作る
── 学生はどういったプロダクトを作るものでしょうか?
永瀬 例えば、学生のあいだで筋トレがはやっていたため、体幹トレーニングの「プランク」の姿勢が正しいかどうかを測定するアプリを作ったチームがありました。スマートフォンの加速度センサーを使って、背中に乗せて測るという半ば悪ふざけみたいなノリでしたが、実際に使えるアプリができました。
── 社会課題を解決する人材を育成するにしては、成果が身近過ぎるようにも思いますが……。
永瀬 学生に課題解決というと、小さな子どもを持つお母さんやお年寄りの困りごとといった、社会を意識した大義名分のあるアイデアを持ってきます。しかし当事者ではないので、ありがちなアイデアでしかなかったり、チーム内で参加する姿勢に差が出てきたりして、教える側も学ぶ側もつまらないものになりがちです。
それを避けるため、最初に強く「自分たちが抱えている問題、もしくは自分の身近な人が抱えている課題にしましょう」と言うようにしています。自分たちが当事者である課題を選ばせると、一見するとオモチャみたいな、でも大人には考えつかない面白いアプリを学生たちは作ってきます。
そこから得られる学びは非常に大きい。自分たちの課題だからこそ、学生は課題を能動的に捉えて、どう解決するかを積極的に考えます。最初のデプロイまで数時間で実現する学生もいます。PBLにおいては「学び方を学ぶ」ことが重要なんです。
── それにはアジャイルが向いているということですね。
永瀬 大学教育にPBLが導入された初期には企業と連携して、企業が持ってきた課題を解決する授業をやっていたそうです。そうすると「納期までにシステムを作る」という受発注関係になってしまい、仕様や要件などが管理がしやすいウォーターフォール型プロジェクトで課題を進めることになります。
そうなると学生にマネジメントというタスクが課されて、プロマネになった学生のマネジメントの善し悪しが成果に影響し、プロジェクト全体の評価が難しい。何より他の学生が面白くないですよね。それに限られた期間で学生がウォーターフォール開発に取り組んでも、だいたい完成にまでたどり着かないんです。大きな絵を描いて勢いよくキックオフしたのはいいけれど、成果は設計書しかないみたいなプロジェクトばかりになる。
これをアジャイルにすると「言い訳はいいから手を動かせ」「とにかく動くものを作れ」ということが大事になるので、自分たちが「どのぐらいできないか?」という現実とも向き合う必要があります。そうやって「このぐらいだったら完成できそう」という現実的な成果を探りながら授業を進めることになります。
「ちゃんとする」より前に作り始めて変更してまた作る
── 学生はアジャイルのやり方にすぐ馴染めるものなんでしょうか?
永瀬 学生たちは、それまで学校や家庭で「ちゃんと計画しなさい」「きちんと準備して進めましょう」という教育をずっとされてきています。親や教師はどうしても子どもに「ちゃんとしなさい」って言ってしまうじゃないですか。学生にはその価値観が染みついているので、それを壊してあげることを意識しています。
── 仕事でアジャイルを導入する際に、既存の考え方を変える必要があることと似ていますね。
永瀬 ただ私の個人的な感覚として、アジャイルの方が人間にとってナチュラルなやり方のように思います。逆に、難しい顔をしてうまくいくか分からない計画を引く方が、無理をしている。幼稚園児が集まって「砂場でお城を作ろう」というときに、まず作業分担してどんな城を作るか設計するなんてことありませんよね。いきなり作り始めて、ワイワイやりながらどんどん形が変わっていって、違うと思ったら壊して、作り直す。
学生にとってアジャイルのやり方は、それまで日常生活で普通にやってきたことなんです。だからアジャイル型の開発を教えても自然と頭に入っている感じですね。
── 学生についてさらにお聞きしますが、10年間で学生の変化を感じることはありますか?
永瀬 この2〜3年で、アジャイルを知っている学生が増えてきました。最初の頃は、アジャイルなんて本当に聞いたことがない学生ばかりだったんですが、今は言葉は聞いたことがあるくらいの人が増えてきています。IT企業でアルバイトやインターンする学生が増えて、そこでアジャイルを経験することもあります。
受講した学生の就職先もそういう傾向を反映してか、以前は経団連に所属するような企業が多かったのに、最近はスタートアップやメガベンチャーといったウェブ系が目に見えて増えています。インターン先でスクラムマスターをしていた学生もいますからね。
── 早くからIT業界のカルチャーに触れる学生も増えているということでしょうか。
永瀬 それもあってか、最近の学生はプレゼンがうまいですね。ハッカソンやアイデアソンが増えたことで、アイデアをアピールすることが評価につながることを知っている。資料の作り方とか発表の仕方などがちょっとした若手スタートアップのCEOみたいな雰囲気の学生もいます。
もちろんプレゼンも大切なスキルですが、実際に手を動かして、動くものを作ることにこそ価値があるわけじゃないですか。アジャイルPBLでは、拙くてもいいから手を動かして貢献することを評価しますし、「エンジニアを目指すなら手を動かせ」ということはいつも強調しています。
企業のアジャイル研修も大学の授業のようにできる
── 大学でアジャイルを教えることで、永瀬さん自身が得た気付きはありますか?
永瀬 私の意識で大きく変わったことがあります。大学で教える以前、アジャイルは実践して体得するものだから、授業で教えられるものではないと思っていたんです。ですが実際に教えるようになって、企業における業務としてのソフトウェア開発と、大学におけるPBLの学習は本質的に似ていることが見えてきました。
何か課題があり、解決するためできることは何か、次にどう行動するのか、現実を踏まえて考えて、積み重ねていく。もちろん営利活動であるかどうかの違いはありますが、アジャイルを教えるという点で両者には通じるものがある。それは本業のアジャイルコーチとして、新卒エンジニアの新人研修に生かせています。正直に言えば教育を甘く見ていたところがあって、もっといろんなことがやれるということに気付きました。
── 大学から企業にフィードバックできることがあるということでしょうか?
永瀬 アジャイルを教えるに当たって、大学での授業はサンドボックスになるんです。言葉は悪いですが、実験できるんですね。企業向けの研修では、要望もあるのであまり極端なカリキュラムの変更は難しいのですが、大学では試してみることができる。ある大学で2週間の合宿授業があって、当初はスプリント期間を1週間としていました。つまり、スプリントが2回あります。
ある年、1日で1スプリントにしようというアイデアが教員から出ました。極端な変更でしたが、そうすれば最大で10回のスプリントになります。実際、やってみたら学生も対応できたんですね。これを企業向けの研修でいきなり試すのはハードルが高いのですが、学生でもできたという実績があれば自信を持って変更できます。
── 学ぶ側が自分で学び方を考える授業だから試すことができるのかもしれませんね。
永瀬 他にも、教える側が無意識に制限を掛けてしまっていることがあるんだと思います。自分が、学ぶ側のリミッターにならないようにする、それをとても意識するようになりました。
それから、教育を継続しているとできることが増えます。先ほどもお話ししたように、筑波大学では前年度にカリキュラムを終えた学生にメンターをやってもらうんですね。このとき学生を教えているつもりのメンターにも、また新たな学びがあります。教え方もうまくなり、教員の負担が減って、メンターだけで学生に対応できることが増えてきたんです。これを「2周目」のアジャイルPBLだと言っています。
アジャイルPBLの火種を絶やさないイベントを開催する
── あらためて、10年にわたる大学での経験をもとにアジャイル教育の現在の状況を教えてください。
永瀬 2013年にAIITから声を掛けてもらい、AIITと琉球大学がコラボレーションしていたことで、琉球大学でもアジャイルを教える機会を得ました。その琉球大学の学生が非常に優秀で、enPiTの成果発表会で圧倒的な評価を受けたんです。それを筑波大学の先生が見ていて、筑波大学でも授業することになりました。そういったつながりからいろいろな大学で教えることになりましたが、実は起点となったenPiT事業はもう終了しています。
残念なことに、大学の先生にとって業績になるのは研究であって、教育ではないんですね。現在、アジャイルPBLに取り組んでいる大学には教育に熱心な先生がいて、研究者としての貴重な時間を、たいへんにパワーが必要なアジャイルPBLという授業に割いてもらっている。言い換えると、そうした先生がいる学校じゃないとアジャイルPBLはできないんですね。
── アジャイル教育の広がりについてお聞きしたかったのですが、そういう状況でもないのですね。
永瀬 広がりというより、せっかくの火種を絶やさないために努力しているとも言えます。私もその一環として「Agile PBL祭り」というイベントを2020年に立ち上げました。アジャイルPBLを実践する学生や若手の研究者を応援し、相互交流と学びの共有の場を作るためです。学生に時間ができる年度末に開催し、その年の取り組みを発表してもらっています(2021年と2022年はリモート開催)。
イベントを開催するもうひとつの理由として、大学でアジャイルに興味を持った学生が卒業後にも関われるコミュニティがほしかったんですね。アジャイル関連のコミュニティはいくつかありますが、他の技術系コミュニティと比べると参加者の年齢層が高めなので、学生や新入社員がいきなり参加するにはハードルが高い。でも、若い人が参加した方が、双方にとって学ぶことが多いはずです。
── 主催組織として一般社団法人を立ち上げたのも、イベントを継続する気持ちの表れですね。
永瀬 一般社団法人アジャイルPBL振興会は、筑波大学、琉球大学、はこだて未来大学、筑波技術大学の先生方と私とで設立しました。これを母体として、2024年3月16日に第5回のAgile PBL祭りを東京で開催します。
▶ Agile PBL祭り 2024 - Tokyo | ConfEngine - Conference Platform
私が学生からどれだけいいものをたくさん教えてもらったか、どれだけ学びになってるか、そういうことをアジャイルコミュニティのシニアな人たちにも伝えられるといいなと思います。
── 開催が楽しみです。本日は興味深いお話をありがとうございました。
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取材・構成:青山 祐輔(@buru)
編集:はてな編集部
- 永瀬 美穂(Nagase Miho) Bluesky: @miholovesq X: @miholovesq
- 株式会社アトラクタのFounder兼CBO、アジャイルコーチ。受託開発の現場でソフトウェアエンジニア、プロジェクトマネージャーとしての経験を重ね、2009年よりアジャイル開発の実践および組織マネジメントを行う。2013年より文科省enPiTの特任教員を勤め、産業技術大学院大学、筑波大学、東京工業大学、琉球大学で非常勤講師を歴任しプロジェクト型学習(PBL)にアジャイル開発を導入してきた。社会人・学生問わず、いきいきしたチーム作りを支援している。著書に『SCRUM BOOT CAMP THE BOOK スクラムチームではじめるアジャイル開発』(共著)など
認定スクラムプロフェショナル(CSP)。産業技術大学院大学客員教授。筑波大学、琉球大学非常勤講師。一般社団法人スクラムギャザリング東京実行委員会理事。一般社団法人アジャイルPBL振興会理事。
ブログ:ナイスビア珍道記