ソフトウェア開発のチーム管理や組織づくりは食品工場でどれだけワークするのか? ── 石井食品にアジャイルを導入する石井智康社長に聞く

石井食品にアジャイルを導入する石井智康社長に聞く

お弁当の定番『イシイのおべんとクン ミートボール』などの商品作りを無添加調理で進める石井食品株式会社*1では、まだ40代の石井智康さんが代表取締役を務めています。石井さんは創業家の出身ながら、大学卒業後はIT業界に入り、フリーのスクラムマスターとして活躍するなど、石井食品とは距離を置いていました。

しかし、フリーランスとして働くなかで、改めて社会にどのような貢献ができるかを考えた結果、食の課題に取り組むため家業を継ぐことを決意。2018年に代表取締役社長に就任すると、それまで培ったソフトウェア開発やアジャイルの知見を生かして、さまざまな業務プロセスやコミュニケーションの改革に取り組んでいます。

企業を取り巻く環境が変化するなか、アジャイルに対する理解と知見を持つソフトウェアエンジニアが企業経営に取り組むことで、どのような変革をもたらすことができるのでしょうか。アジャイルとの出会いや石井食品における取り組みについて石井さんに伺いました。

どんなに苦労してもリリースできなければ価値はゼロだ

── 石井さんがすぐに家業を継承されなかったのはなぜでしょうか?

石井  手に職を付けたいと考えていました。小さい頃から「あなたは会社を継げるからいいよね」と周囲から言われていて、それに反発しながらも、現実的には家業に依存していることにコンプレックスがありました。だから会社を継ぐつもりはなく、ソフトウェア業界を選んで就職しました。

── 家業から遠く、専門性が得られる仕事としてソフトウェアエンジニアを選ばれたんですね。

石井  入社したのは大手ITコンサル企業の子会社で、いわゆるSIerでした。何かを作り上げることが好きだったし、大学の専攻は文系でしたがプログラミングもやっていたので、コンサルタントと一緒になってシステムを作っていくことに興味あったのです。

── 当時のSIなら、石井さんが注力されるアジャイルではなくいわゆるウォーターフォール型の開発が主流だったと思いますが。

石井  そうですね。ウォーターフォール型の開発にはずっと限界を感じていました。エンジニアとして良い開発をしたいのに、それを阻害する要因は何だろうと考えて、開発プロセスが重要だと思い至ったのです。

── 何かきっかけがあったのでしょうか?

石井  エンジニアだけで200人くらいになる大規模な開発プロジェクトに参加していたのですが、それがプロジェクトごと吹っ飛んでしまったことがありました。幸いなことに、私がいたチームはよいメンバーが揃っていてマネージャーも優秀だったので、オンスケジュールで進んでいました。

しかし自分たちだけ進捗がよくても、プロジェクト全体が止まったらお客さんに価値を提供することはできないですよね。あんなに苦労して開発したのに、リリースできなければその価値はゼロになってしまう。お客さまにも申し訳ないし、それを使うはずだったエンドユーザーさまにも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

この経験があったからこそ、アジャイル開発の考え方を知ったときにすごく刺さったように思います。アジャイルソフトウェア開発宣言や、そこに書かれた価値観がたいへん良いものに感じられました。開発プロセス自体をアップデートしないと、ソフトウェアによって価値提供することは難しいのではないかと実感する出来事でした。

石井さん近影

石井 智康(いしい・ともやす)
石井食品株式会社 代表取締役社長 執行役員
1981年生まれ。2006年からSI企業で大企業の基幹システムの構築やデジタルマーケティング支援に従事。2014年よりアジャイル型受託開発をフリーランスで実践する。2017年に祖父の創立した石井食品株式会社に参画し、2018年6月より現職。「地域と旬」をテーマに農家と連携した食品づくりを進める。認定スクラムプロフェッショナル。

他責にしていたら場所を変えてまた同じ失敗を繰り返す

── アジャイルに出会ってから、どのように実践したのでしょうか?

石井  SIerだと仕事を認められると上流でマネジメントを担当することになります。もっと開発がしたかったので、スマホアプリやWebサービスを受託開発するベンチャーに転職しました。ここでは自分のプロジェクトの範囲でバックログみたいなものを作ったり、個人でできるアジャイルのプラクティスを取り入れました。しかし受託契約の壁もあってチームでの「ふりかえり」など、やりたくてできないことも多かったですね。

── アジャイルについて学んだり情報交換したりする必要もあると思いますが。

石井  そのころRubyで開発していたのでRubyの勉強会に参加して、そのつながりで角谷(信太郎、@kakutaniさんが当時いた永和システムマネジメントの勉強会だったり、アジャイルコミュニティの飲み会にも参加したりしました。勉強会で会った西村直人@nawotoさんにもよくアドバイスをいただきました。

本格的にスクラムを始めようと自社サービスを開発するスタートアップに転職したのですが、前職の送別会で「アジャイルをやりたいんだ」と熱く語っていたら、たまたま後ろの席に平鍋(健児、@hiranabeさんがいて「アジャイル・ジャパン」に誘われたこともありました。

── 次の会社ではスクラムをうまく実践できたのでしょうか?

石井  いえ、挫折しました。3カ月ほどスクラムを実践したところで、社長から「エンジニアが楽しそうに開発するようにはなったけど、ビジネス的なコストメリットが分からない」と言われてしまったのです。社長からはスクラムを止めて、私もいちエンジニアとして仕事をしてほしいと言われたのですが、それはやりたいことではなかったので最終的にフリーランスの道を選ぶことになりました。

── アジャイルについて経営者の理解を得ることが難しいことはありますね。

石井  たしかにそうですが、経営者にとってエンジニアの働き方や開発プロセスは、はっきり言うとどうでもいいんですよね。やりたいビジネスがあって、エンジニアがどういったプロダクトをどう提供してくれるかにすぎないわけです。そうすると経営側のニーズを聞き出した上で、アジャイルのプラクティスがどう価値提供できるかに重きを置かなくてはいけません

── アジャイルを理解した開発組織に移るだけでは解決しないということでしょうか。

石井  この体験を「エンジニアを分かっていない」と社長のせいにもできたわけです。けれど、それだとまた同じことを繰り返しちゃうんですよ。アジャイルの価値観では、失敗したときに何を学ぶかがすごく重要です。失敗を糧に自分が変化するには、改めるべき考え方や止めるべき行動を明確に決める必要があります。それを決めずに場所だけ変えても意味がありません。

フリーランスになっていろいろな開発チームを支援するなかで見えたことですが、チーム内で問題が発生したときに当事者が転職したりチームを離れることでいったん問題が解決することがあります。でも、そこで問題を他責にしている人は、場所を変えても面白いぐらいに同じような問題を起こすんですね。自身が変化しないと、本質的には何もよくなりません。

アジャイルを支援すればするほど意識が経営に近づいていく

── フリーランスのエンジニアを選択したのは2014年ですね。

石井  勉強会で知り合った原田(敦、@harada4atsushiさんが、月額料金で受託開発するベンチャーを始めたんです。フリーランスのエンジニアを集めた開発チームを組成したので、立ち上げから関わりました。

受託であっても、発注側のニーズをちゃんと聞いた上でどういうユーザー体験が実現できるかを定義し、できるだけ早くユーザーに触ってもらいながらビジネス価値を実現する取り組みのなかで、初めてアジャイル開発の成功体験を得ることができました。

── この頃から勉強会に参加するだけでなく、主催するようにもなっていますね。

石井  当時は「初心者に向けたコミュニティがない」と感じていたので、フリーランスとして一緒に仕事をしていたメンバーとアジャイルの疑問を学ぶ「アジャイルひよこクラブ」を立ち上げました。

毎月のように勉強会を開催していて、Agile Journeyの林(尚之、@t_hysshさんに登壇してもらったこともあります。ペアプログラミングがよく分かっていなかったのですが、すごく勉強になりました。そのベンチャーでも完全にペアプロで開発するようになりましたから。

▶️ ゆるいペアプロ かるいペアプロ ー 6/26 アジャイらないひよこクラブイベントレポート

他にも勉強会やイベントに参加して、とにかくアジャイルコミュニティで動き回っていました。活動自体が楽しかったこともありますが、やはりアジャイル開発の価値観にすごく共感したからだと思います。

3年がたつ頃にはフリーランスでやっていく自信も付きましたし、関わっていたスタートアップからは社員になってほしいと誘われたこともありました。ただ、そのタイミングで「次の3年は何をしようか?」ということを考えました。働き始めて、だいたい3年ごとにキャリアを見直してきたので。

── フリーランスで成功していながら、家業の石井食品に戻られたのはなぜでしょうか?

石井  コミュニティや仕事で接した経営者の方々から受けた影響が大きいですね。スタートアップの社長が人生をかけたリスクを取っているのを見てすごく刺激を受けました。有名になることやお金を稼ぐことより、どうしたら社会にインパクトをもたらすことができるか。そう考えたときに、たまたまプライベートでも大きなキーワードになっていた食や農業に関する課題がたくさんあると気づきました。

起業することも考えたのですが、社会に価値をもたらすスピードを考えたら、すでにある石井食品をアップデートさせる方が早い。それまで何かに依存しないと生きていけないことがコンプレックスでしたが、フリーランスでやっていける自信がついてはじめて、家業を継ぐことがキャリアの選択肢に入ってきました。

── フリーランスとして働いたことで家業をフラットに見ることができたんですね。

石井  スタートアップを支援していると、事業計画にまで踏み込まないとスクラムを続けられないですよね。良い開発をするには、よい開発組織が必要。そのために開発予算をどうするのか? 採用をどうするのか? 業務委託のスクラムマスターなのに採用面接を担当したこともあります。アジャイルをやればやるほど、経営に近づいていく感覚がありました。

石井さん近影

ホワイトボードと付箋をオフィスのあちこちに置いた

── 石井食品の経営に入って、どういった改善から始めたのでしょうか?

石井  ITインフラやソフトウェアについては、少し見ただけでやれることがたくさんあるのが分かりました。Webサイトをリニューアルしたり、PCを新しくしたり、SaaSやツールを導入したりしています。

また、アジャイル開発で培ってきたチームマネジメントや組織作りにおいても、ソフトウェアと製造業という違いはあれどやれることがたくさんあります。スクラムマスターのメタスキルにもある傾聴から始めました。社員が感じている石井食品の良いところ・課題となるところを、ほぼ全ての部署から聞いたのです。

全国の営業所を回ってひたすら聞き、その結果を付箋を使って整理したところ、課題として挙げられたのは圧倒的に「コミュニケーション不全」でした。部署と部署の間でも、部署内でもコミュニケーションが取れていない。最初に行うべきは「コミュニケーションをどう円滑にさせるか」だと分かりました。

── どのように改善したのでしょうか?

石井  ホワイトボードをたくさん購入して、オフィスのあちこちに置きました。付箋もたくさん用意して、部署ごとに週の予定をカンバンのように貼り出したり、ブレストや「ふりかえり」のやり方を教えたりしました。ふりかえりについては、今ではどの部署でもかなり定着しています。スクラムのイベントでいう「レトロスペクティブ」ですが、カタカナ語ではなく「ふりかえり」という日本語で伝えたのがよかったようです。

── てっきりITツールを導入したのかと思いましたが、たしかにホワイトボードと付箋というアナログなツールなら使えない人はいませんし、アジャイルのプラクティスやイベントでも使われますね。

石井  気を付けているのは「アジャイルの押し売り」を絶対にしないことです。現場が「それはよさそう。やってみたい」と思わない限り、どんなに優れたフレームワークもどんなに便利なITツールも生かされることはありません。最初に組織の課題を聞いて必要なものを、たとえアジャイルのプラクティスであっても「アジャイル」という言葉は使わないで埋め込んでいく。その方が成功率が高いのです。

ITツールについても早くからZoomやSlackを導入して、当初は使いたい人が使えばいいと考えていました。ところが、ちょうどコロナ禍で自宅待機・在宅勤務となって現場で必要になったため、社内で一斉に使われ始めたのです。今では大半の人が使いこなしてくれています。

── アジャイルと言わずにアジャイルを浸透させる試みが進展しているんですね。

石井  商品開発においては、早くからエレベーターピッチを導入しています。どういうビジネスニーズを狙ったものなのか明確にして、開発コンセプトが承認されないと試作に進めないようにしました。

弊社の味作りはかなり優秀で、試作品でもすごく美味しいのですが、ふんわりと商品開発を始めていたためにコンセプトやターゲット、どんなニーズを解決するのかといった観点がいまひとつ見えなかったようにも思います。

一方で営業部門からすると、適切なタイミングで適切な新商品が出てきづらいという認識のズレが生じてました。これもコミュニケーション不全が根本的な課題でしたが、現在はニーズやスケジュール感を営業部門と握った上で、目標に向けた開発ができるようになりました。

▲ Developers Summit 2020で石井さんが登壇した「エンジニアの事業承継」より

対話をファシリテーションできる人材を増やしたい

── 石井食品ではアジャイルの考え方がどれくらい浸透しているのでしょうか?

石井  大きな成果としては、企業のミッション・ビジョン・バリューを時代に合わせて2022年にアップデートしました。中でもバリューは10項目の半分ほどがアジャイルの考え方によるものです。この大半は、社長就任直後から年次の方針書で社会や市場と我が社の状況に対する行動規範として掲げてきたものです。

  1. 去年と同じことは原則禁止
  2. 評論家になるな、挑戦し続けよう
  3. 人を見ず、コトを見よう
  4. シンプルに考える、作る
  5. 小さい失敗をいっぱいする、そして学び続ける
  6. ……
▲ 石井食品株式会社の「企業理念」に掲載されたバリューより抜粋

── 確かにこのバリューは一読してアジャイルっぽいですね。

石井  分かりやすいのは「小さい失敗をいっぱいする」ですね。どうしても日本の文化では失敗を恐れるので、フェイルファスト(fail fast)を強く押し出しています。

去年と同じことを禁止しているのは、そもそも食品業界が1年スプリントだからです。季節ごとに食材があり、商品のサイクルが年間で決まっています。1年に1回しかないので、みんな失敗を恐れて同じことをやろうとする。でも、今は人の行動がどんどん変わっているので、同じことをしていたら失敗します。

アジャイルな組織になるため、このミッション・ビジョン・バリューという形で社内に浸透を図っていますが、まだ完全にできているとは言えません。とはいえ、若手社員から「『小さい失敗をいっぱいする』というバリューに救われました」という声を聞くこともあり、着実に進んでいることを実感します。

── アジャイルとは言わなくても、会社全体が少しずつアジャイル的な組織に変化しているんですね。

石井  目に見える制度として導入しているのが、社内のファシリテーター検定です。ファシリテーションもスクラムマスターに必要な要素ですが、その重要性はフリーランス時代にさんざん学んでかなり勉強しました。

マネージャーが進行する形式の会議では、たいてい皆がただ聞いているだけで積極的には話さない、当たられたときだけ発言するお通夜のようなものになりがちですよね。ちゃんとしたファシリテーターを立てたいと考えていますが、社内でそのスキルを持っているのが私だけでは限界があります。

そこでコミュニケーションを活性化させるため、人材開発担当者と一緒になり「基礎ファシリテーション研修」という検定制度を作りました。現在は、社内研修を受けた人数も100人を超えるほどになり、中級以上になると実際の会議でファシリテーションしてもらっています。

目指すは日本一アジャイルな食品工場

── 石井食品に入社して7年ですが、アップデートはどのフェーズまで進みましたか?

石井  経営者としてはレベル1からスタートしたので苦労しています。アップデートといっても中長期的な目線を持ちながら、その時々でできることをひたすらやっていくことしかできません。7年かけてやりたいことの3合目くらいでしょうか。やっと基盤が整ってきて、けっこうかかったと思います。

── これからの目標を教えてください。

石井  僕の中では「日本一のアジャイルな食品工場」になりたいと考えています。社内では「アジャイル」という言葉を使わないので、そのような表現は使わないですが。

アジャイルな食品工場というのは、単純に顧客志向で、お客さまの課題解決のためにちゃんと変化できるチーム・組織になることですね。働いてるメンバーも生き生きしていて、クリエイティブにいろいろなチャレンジができている状態が、私の目指すべきアジャイルな組織像です。そこに向けてビジネス的にも、組織の面においてもやれることはすごくたくさんあると感じてます。

── 取り組みがさらに進むことを期待しています。本日はありがとうございました。

石井さん近影

合わせて読みたい関連記事

取材・構成:青山 祐輔@buru
撮影:小野 奈那子nanakoono_
編集:はてな編集部